BADEND  対決のときだ。  耕司は前もって予告してあった通り、再度、郁紀の番号を呼び出す。  まるで待ち受けていたかのように、すぐに通話は繋がった。 『……やぁ耕司。今どこだい?』 「どこだろうと関係ないだろ」  そう答えた耕司の背後で、やおらけたたましい電子音が鳴り響く。ぎょっとなって耕司は廊下の方を振り向いた。  郁紀宅の電話機がベルを鳴らしながら着信ランプを点滅させている。 『……ふぅん、なるほど。やっぱり僕の家に来たか』  してやられた。あの電話を鳴らしているのは郁紀だ。  彼は耕司と通話しながら、別の携帯電話を使って自宅の番号を呼び出したのだろう。耕司の電話からそのベル音が聞こえてくれば、それで耕司の居場所は確定する。  郁紀は最初から、耕司がまず前置きなしに郁紀の家に踏み込み、そこがもぬけの殻と知ったところで自分に電話してくるものと予想していたのだろう。 『じゃあもう、見られちゃったんだろうね。色々と……』 「ああ——」  耕司は、以前にはない狡猾さを発揮しはじめた郁紀の読みの鋭さに慄然となりながらも、それでも怖じることなく肯定した。 「しばらく会わないうちに、えらく悪食になったらしいな。——いったい今日まで何人殺した?」 『いや、僕はまだ一人だけ』  何ら悪びれることもなく、垢抜けた朗らかさで郁紀は即答する。 『でも、解体だけなら3、4人ってとこかな。かなり慣れたよ。腱を切ったり血抜きしたりとか』  そういう郁紀の非人間性を、もう耕司は悲しみも畏れもしなかった。ただ、記憶にあるがままの親友の声が吐き散らす忌まわしい内容に、冷たい殺意だけを募らせた。 「貴様、青海を殺したな? 知らないっていうのは嘘だな」 『うーん、どうなんだろう……』  どこかはにかむような当惑の声で、郁紀は言葉を濁す。 『正直言うとね、最初に食べたのが、もしかしたら青海だったかもしれないんだ。ちょうど彼女が消えたその日だし。いや、誰の死体かなんて判らない有様だったからさ』  無論もはや何の楽観も頭にはなかったが、耕司はようやく、恋人の悲惨な末路について知った。 「……津久葉も、か?」 『いいや。彼女はちゃんとここにいる。僕だって馬鹿じゃない。彼女は取引の材料なんだろ? むざむざ捨てたりしないさ』  さも呆れたと言わんばかりに失笑を漏らす郁紀。 「声を聞かせろ」 『それはちょっと無理かな。口を利けるような状態じゃないから』  さらりと言い捨てられた言葉に、耕司の殺意がまた一目盛り吊り上がる。 「言った筈だぞ。彼女を無事に解放しないなら——」 『生きているだけでも良しとしてくれよ。それとも完全に死体になった瑶が欲しいかい?』 「……」 『確認するが、耕司、お前は集めた資料のすべてを証拠ともども持ってこい。その内容を見て納得できたら、僕らは瑶を引き渡す』 「——いいだろう」  この取引が口先だけのものなのは、耕司の目にも見え透いていた。  郁紀は耕司を殺して秘密を闇に葬る気だろう。そもそも瑶が無事かどうかも怪しいものだ。いま目の前にある冷蔵庫に彼女の肉があったとしても何の不思議もない。  だが今の耕司にとって、そういった真偽にさほどの意味はない。耕司にもまた取引の意図などないのだ。彼はただ郁紀とその黒幕を破滅させるためだけに接触を図るのだから。 「場所は?」 『お前が僕を尾行してきた奥涯教授の家、憶えてるだろう? 今夜7時にそこで落ち合おう。一人で来いよ』 「おい……」  耕司の返答を待ちもせず、郁紀は一方的に通話を切った。  ことによると、あるいは——郁紀も、耕司の殺意を見破っているかもしれない。殺す標的が、ただ殺されるためでなく、自らも殺意を秘めてやってくることを理解しているかもしれない。  要するに決闘者どうしの腹の探り合い、か——耕司は独り、陰惨な笑みを浮かべて携帯電話を仕舞った。  片手で握手を求めながら、もう一方の手は背中にナイフを隠し持つ。いまや耕司と郁紀は、そういう間柄というわけだ。かつての友情が、いまや随分と変わり果てたものだ。  7時という時間指定を遵守するか否か。これが真面目な取引ならば、相手の不興を買うような先回りなどは避けるのが賢明だろうが、いま耕司と郁紀が演じているのは、互いが互いを罠にはめようとする人間狩りだ。  指定した7時までの間、郁紀が何をするつもりかは知らないが、むざむざ相手に先回りを許すことはない。  新しく胸に芽生えた獰猛さは、疲弊しきった身体を駆り立てるのに充分な糧になった。  訪れたときよりも決然とした足取りで、耕司は死臭立ちこめる家を出た。  夏の事故からこのかたハンドルを握っていないだけに、僕にとって自動車の運転はかなり危険な試みだった。  なにせ今の僕には、道が道に、車が車に見えていない。今朝になって必要に迫られるまで、正直なところ公道での運転は危険すぎると諦めていたのだ。  だがこの3ヶ月、それなりに知覚異常と折り合いをつけて生活してきた僕は、目に見える諸々の物体のうちどれが自動車でどれが歩行者か、そういった判別が出来るまでになっていた。  信号の赤青も、赤や青には見えなくとも意味するところは理解できたし、ウィンカーやブレーキランプの点灯といった先行車の挙動も、おおまかのところ察しがついた。  さすがに道路標識の理解まではできないが、いざやってみればそれほどの不自由もなく、僕は後部座席の沙耶と瑶を無事に目的地まで運ぶことができた。  自宅を破棄した僕たちの逃亡先に、名案を出したのは沙耶だった。彼女がまだ奥涯教授の自宅で暮らしていた頃、深夜の散歩で見つけた廃墟があるという。  まだ宅地開発の途中にあるような郊外丘陵地の住宅街では、ほんの少し奥に分け入っただけで、ろくに人も通わないような|辺鄙《へんぴ》な森林と出くわすことが珍しくない。沙耶がかつて『遊び場』にしていたのも、そういう日常のすぐ裏側に隔離された結界のような場所だった。  かつては閑静な森の中で開業されていた個人経営の療養所。不況の折りに倒産し、そのまま地所の買い手もつかぬまま放置され、忘れ去られてしまったのだろう。  いったん沙耶たちをここに待避させたあと、すぐさま街へと引き返して諸処の準備を済ませ、僕はようやく戻ったところだった。  一目見た外観だけでこの廃墟は気に入っていた。さして広くない前庭には不法投棄された建材や粗大ゴミが山になり、ていのいいバリケードになっている。ここならば自宅にいた頃よりもさらに他人の干渉はなさそうだ。  あらゆる人間をおぞましい怪物として認知してしまう僕は、人間の生活感もまた薄汚いヘドロの染みや汚臭と感じてしまう。むしろこういう廃墟のような人間性の欠落した景観の方が、質素で飾りのない、心安らぐ空間に感じられた。 「ただいま」  沙耶たちが他人と勘違いして警戒しないよう声をかけてから、僕は彼女らが潜んでいる地下室へと下りていく。 「おかえりなさい。車、平気だった?」 「もう全然問題ない。一方通行の標識もどういうのか解ったし。スピードさえ出さなければどこを走っても大丈夫だよ。で、そっちは?」 「ひととおり調べたけど、やっぱり、あれからずっと人が来た様子はないみたい。ここは安全だよ」 「そうか。ならいいんだけど」  こういう廃墟は暴走族の溜まり場になったり、浮浪者が居着いたりしてないもんかと、少し不安ではあったんだが。 「たぶん、表に積み上げてあるゴミのせい。あれ、普通の人間にはちょっと耐えられないんじゃないかな?」 「ふぅん……」  僕には一向に気にならない、というよりむしろ快適に感じるんだが。まぁそういうものなんだろう。 「で、郁紀の買い物は? いいの見つかった?」 「ああ、もちろん」  僕もちょっと自慢したい気分で、キャンプ用品店で購入した新しい得物から包装を解く。長さ1メートル近い柄のついた薪割り用の斧だ。いちばん大きくて頑丈そうなのを買ってきた。 「刃渡り15センチ以上のナイフは銃刀法違反だなんて張り紙してあるのに、その隣でこんなもの売ってるんだよ? お笑いだよね」  頼もしい重さを両手で確かめ、バッタースイングで一振りしてみる。鋼鉄の斧頭が危険きわまりない威力で、ちょうど人間の首の高さを薙ぎ払う。  空を切る刃の荒々しい唸りを聞いて、床にうずくまっていた瑶が怯えたように身を|竦《すく》める。 「切れ味とか、どう? 瑶で試してみたら?」 「いや、それはちょっと……」  突拍子もなく物騒なことを言い出す沙耶に、僕はさすがに面食らった。 「心配いらないよ? 今の瑶の身体だったら、刃物とかの傷はわりと簡単に治っちゃうから」 「いや、それにしたって痛いだろ」 「そっか……うん、そうだね」  そこをきれいに忘れていたらしく、沙耶は何も解っていない瑶に向けて照れ隠しの笑いを向けた。 「でもさぁ、痛くされたときの瑶の声って、それはそれで可愛いよね?」 「いや……やっぱり、人間に斧で斬りかかる、ってのは気が退けるよ」 「そうなの? じゃあ耕司サンは?」 「そりゃ、だって——」  問われるまでもないことなんだが、まだ沙耶には解らないらしい。 「——ヤツは僕には人間に見えないから。斬ろうが潰そうが平気なもんさ」 「ふぅん、そんなに違うんだ?」 「そうさ。人間には良心があるからね。どんなに憎い人間だろうと、人を殺すと思うとブレーキがかかるもんだ。そこが僕の勝算でもある」 「……本当に?」  そう確認する沙耶の表情はやけに神妙だった。どうにも彼女は、僕が耕司と直接対決することに不安があるらしい。 「体格じゃあいつが上だし、普通に喧嘩したんじゃ勝ち目は薄いかもしれないけどね。でも僕にとっての『化け物退治』が、あいつにとっては『人殺し』なんだ。こいつは大きいよ。あいつはきっと最後の瞬間で隙を見せる」 「なんだか……不安なんだよね。そういう心理戦っていうの。確実じゃない、っていうか……」  いつになく真顔で床を見つめていた沙耶は、そう呟いてから、視線を上げてまっすぐに僕を見る。 「ねぇ、やっぱり私が狩った方が良くない?」  沙耶の気持ちは嬉しい。たとえそれが意味合いの上で僕を信じていないということになるとしても、彼女は我が身の危険より僕の身を案じてくれているのだ。  だが、その気持ちは僕だって引けを取らない。 「沙耶の腕力だとさ、瑶みたいな女の子なら楽にねじ伏せられるだろうけど、男を相手には厳しいと思うんだ」  僕の頭には、沙耶を鈴見に強姦されたときの苦い記憶があった。沙耶も僕の考えていることに察しがついたらしく、一瞬だけむっつりと押し黙ったが、それでも意固地になって食い下がった。 「でもね、あのおじさんも、最初の不意打ちは上手くいったの。大抵の人間はね、沙耶を見たら力が抜けて動けなくなっちゃうんだよ。病院だってそうだった。平気で話しかけてきたのって郁紀だけだよ」 「ふむ……まぁ、それも一理あるかもな」  いまいち僕には説得力がないんだが、沙耶の容姿がショッキングで、それに驚いた相手が戦意を喪失する、というのはあり得る話だ。  鈴見が沙耶より優位に立ったのも、僕と同じ知覚障害を植え付けられて、沙耶のことを可愛い女の子として認識するようになってからのことだ。  だが、恐怖が人を弱くするばかりとは限らない。場合によっては凶暴化させて余計に手がつけられなくなるかもしれない。  だからそういう威嚇も結局のところ、沙耶が言うような『確実ではない心理戦』と変わらない。 「じゃあさ、沙耶、こういうのはどうだろうか——」  ふいに思いついた新しい作戦を、僕は沙耶に話して聞かせた。すると沙耶はそれまでの暗い表情を一転させて破顔した。 「それ名案! うん、郁紀って頭いい!」 「何もそこまで……」  策略としての善し悪しよりも、沙耶は僕の請け負う危険の度合いが減ったというだけで、充分に名案なのだろう。まったく現金なものだ。そこがまた可愛いが。 「で、いつごろ来るの、耕司さん」 「今朝、あれから電話があってさ。とりあえず関係ない場所に誘い出してある。少しじらしてやろうと思ってね」 「やっぱり、暗くなってからがいいよね?」 「ああ。頃合いを見計らって、ここに誘い出して仕留めよう。ここなら誰にも気付かれないからね」 「せっかく人間一人ぶんの肉が仕入れられるのに、ここだと腐らせちゃうね。冷蔵庫ないし」 「他の動物を誘う餌にできないか? 野良猫とかカラスをおびき寄せてさ——」 「それ危ないよぉ。万が一取り逃がしたとき、余所に持って行かれて他人に見つかったら大騒ぎになるよ?」 「そうか。それもそうだ」  人間というやつはとことん危険で、おまけに近寄るだけでも臭くて汚くて|辟易《へきえき》するというのに……皮肉にも、食用肉としては最高に美味なのだ。家の冷蔵庫に残してきた分はつくづく残念でならない。 「まぁ、この辺だと森にも色々と棲んでるから。そんなに食事には困らないんじゃないかな」 「3人分だよ? 大丈夫かい?」 「まっかせて。これでも沙耶、狩りは得意なんだから。頑張っていっぱい捕まえてくるよ」 「そうか。じゃあ今日からは沙耶が一家の大黒柱だな」 「うふふ」  僕におだてられて、沙耶は得意げに笑う。こういうところは本当に子供っぽくて可愛らしい。 「今度はどのぐらい、のんびりできるかなぁ」  沙耶の声はごく普通にさりげなく、だから僕はその問いが行き着く先にある虚無に気付かず、聞き流すところだった。 「どのぐらい——かな」  そうなのだ。  いつまでも、ずっと……じゃない。  どんなに安全な隠れ家と思えても、いずれは引き払う潮時がくる。僕が耕司の口を封じ損ねたように、ほんの些細な手違いで、僕らの生活は脅かされてしまう。  この廃墟にも、いつかは肝試しに来るような馬鹿がいるかもしれない。新しい宅地開発の対象になるかもしれない。  僕は沙耶とともに生きていくために、人と違う生き方を選択した。そんな僕らが安住の地を見つけることは——この人間ばかりが|犇《ひし》めく世界では、たぶん有り得ない。それこそ世界の外側にでも逃げ延びない限り。 「——長い旅だと、思えばいいさ」  僕は沙耶を抱き寄せ、その細い両肩を両手でそっと包み込みながら、囁きかけた。 「どうせ人生なんて旅みたいなものなんだ。永遠に変わらない場所なんてない。時の流れを見送るか、自分自身が流れていくか、それだけの違いだよ」 「そうだよね」  沙耶は笑った。力のない静かな笑い。それは諦観かもしれないし、憐憫かもしれなかったが、だとしても安らかに満ち足りた笑いだった。 「それでも、独りぼっちじゃないし、だから沙耶は寂しくなんかないよ。郁紀も、そうだよね?」 「ああ」  僕だって、後悔はない。  この腕の中に沙耶を抱き続ける——そのための代価が要るとしても、惜しいものなんて何もない。 「それにね——」  沙耶は僕を励ますように、やや弾んだ口調で付け加える。 「いつかは、私たちが人目を忍んで暮らさなくても良くなる日が、きっと来るよ。それは約束してあげるから」  その夢想のような言葉に、なぜか彼女は確信に近い自信を込めていた。 「それは明日かもしれないし、ずっとずっと先のことかもしれない。いつ|徴《しるし》が来るのか、私にも分からないの。初めてのことだから。——ほんのちょっぴり、怖いんだけどね」  僕には理解も及ばない、沙耶の謎めいた予言。初めてのことじゃない。彼女は僕の想像を絶した奇跡を、これまでに何度も起こしてきた。 「僕らにも……希望があるのかい?」 「うん」  晴れやかに頷く沙耶。 「きっとそれが、沙耶が郁紀に贈ってあげられる最後のプレゼント。沙耶の、最初で最後の務め」  黴臭く|饐《す》えた空気の中で、耕司はただじっと時を待っていた。  薄暗い無人の部屋に閉じこもり、階下に動きがないものかと耳を澄ませたまま、半日近い時間を過ごすというのは、人並み外れた忍耐力を要求される行為だったが、耕司はそれを厭うこともなくやってのけた。  ——苦にならない、というよりは、苦になろうが構わなかった、というべきか。尖りすぎた神経を持て余すよりは、自虐的によりいっそう神経を磨り減らす方がまだましだったのだ。  いま自分の体力を極限まで発揮させているのは、まぎれもない偏執狂ならではの集中力なのだろう。耕司もそれは自覚していた。  己を虐待するのは心地よかった。親友と信じていた男に全てを覆された今、耕司はその理不尽を、裏切られた自分自身のすべてもろとも破壊したかった。  自傷の衝動からくる行動力は、どんな崇高な信念や決意によるものよりも力強く無尽蔵だった。  はじめ耕司は、郁紀がこの家に拠点を移したのかと思っていたために、奇襲攻撃を仕掛けるぐらいの覚悟で慎重に接近し、忍び込んだ。  依然ここが空き家のままだったのは、中に入ってからようやく判ったことだが、それでも耕司は、郁紀が待ち伏せの準備のために約束の7時より早い時間に現れるだろうと確信していた。  だから、窓の外の陽光が盛りを過ぎて朱に染まり、やがて夜闇に沈み込んでいってもまだ、だれもこの家を訪れようとしないという現実に、次第次第に耕司の忍耐力は軋みを上げて傾き始めていた。  午後7時。  耕司の苛立ちが頂点に達したところで、マナーモードに設定していた携帯電話が音もなくランプを点灯させた。  郁紀からの着信。本人は現れず、連絡だけ——  耕司は謀られたことに察しがついて歯噛みしながらも、それでも声音だけは氷の冷静さを保って、着信を受けた。 「どういうつもりだ? 郁紀」 『いやね、まさか待ち伏せなんていう無駄なことをして神経磨り減らしてないか、お前のことが心配になってさ』  皮肉をたっぷり交えた嘲りの口調で、電話先の郁紀がクスクスと笑う。 『遅くなったが、そろそろ本当の待ち合わせ場所を教えておかなくちゃ、と思ってさ。間に合ったかい?』 「ふざけた真似を……」 『まぁ怒るなよ。当然の用心だろう?』  耕司の意図などお見通しだと言わんばかりの、悪意を剥き出しにした声で郁紀が嗤う。 『お前が奥涯教授の家まで来てるんなら、そこからほんの少し先、歩いて行ける距離の場所だよ。僕と瑶は、そこにいる。……まぁまずは車に戻ってカーナビを見ろ。所番地を教えてやるから』 「今度こそ信用できるっていう保証は?」 『疑わしければ来なくていい。尻尾を巻いて逃げるがいいさ』  挑発の言葉で締めくくって、郁紀は通話を切った。  やり場のない怒りを持て余し、耕司は座っていた椅子を蹴り飛ばした。  だが選択の余地はない。  すでに耕司は自分が疲弊の極みにあることを自覚している。いま立ち止まればそれきり糸が切れた人形のように昏倒してしまうだろう。  そんな耕司が肉体を限界以上に酷使していられるのは、ぎりぎりまで己を追いつめた強迫観念があってのことだ。  ここで一息ついて甘えて休息を許せば、もう二度と彼は、この一件に立ち向かうだけの勇気と意志力を発揮することはできないだろう。  本気で郁紀を抹殺しようと思うなら、今夜を逃せばチャンスはない。  相手はむろん、待ち伏せの罠を張っているだろう。ここで正々堂々、などという騎士道精神を持ち出す郁紀ではない。それについては相手をとやかく言える耕司でもなかった。  夢遊病者のような足取りで、耕司は奥涯邸を出てアコードに向かった。  郁紀が電話で指示したのは、いま耕司がいる住宅地の外れ——まだ麓までしか開発の進んでいない丘陵地の、森に覆われた頂だった。  カーナビの地図では行き止まりの|隘路《あいろ》しかないが、郁紀の話によれば、その突き当たりに古い療養所の廃墟があるという。  たしかに、間違っても人が寄りつかない場所だ。してみると次こそは、やはり本命かもしれない。  アコードを駆って勾配のきつい坂を上っていくうちに、ほどなく民家の姿は消え失せた。すぐ足元まで開発の手が迫っていながらも、まだ切り開かれていない森の闇は予想以上に深い。  密かに隠れ住むには絶好のロケーションだろう。あるいは密かに誰かを抹殺するのにも。  こういう忘却の土地というのは、市街地から距離を隔てたところにばかりあるのではない。生活圏の直中であろうと、人の注意を惹かないというだけで、世界の死角はいくらでも発生しうる。  アコードのヘッドライトの中に、ふいに朽ち果てた門柱が幽霊のように立ち現れた。どうやら終点のようだ。  徐行で門柱の側まで車を寄せてから停車し、耕司はエンジンを切って森の静寂に身を任せた。  ほとんど間を置かず、携帯電話が着信音を鳴らす。むろん相手は確かめるまでもない。 「……着いたぞ」 『ああ、聞こえてた。ようこそ我が新居へ』  アコードの排気音を聞いて耕司の到着を察知できるだけの近場に、もう郁紀はいる。武者震いが耕司の背筋から肩までを駆け抜けた。 『中に入って来いよ。瑶も待ってる』  それだけ言って、通話が切れる。  ダッシュボードから昼のうちに新しく調達したマグライトを取り出し、ポケットの銃の重みを確認してから、耕司はドアを開け、車外に降り立った。  さして広くない前庭には不法投棄された粗大ゴミが山になり、ていのいいバリケードになっている。  冷蔵庫や原付バイクなどは可愛いもので、コンクリートの瓦礫や石膏ボードの切れ端といった、明らかに業者の投棄した廃材もうずたかく積み上がっている。ここまで人目を気にせずに好き放題できるというだけで、どれだけ人の立ち寄らない場所なのかは察しがついた。  思いのほか月は明るく、戸外にいる限り手明かりがなくても足元に不自由はない。耕司は警戒を怠ることなく、ゴミの山を迂回しながら奥の建物を目指す。  傍らの廃棄物の中にはいったい何が埋まっているのか、辺り一面には薬品めいた不快な刺激臭が立ちこめていた。  こんな場所には浮浪者でも近寄らないだろう。およそ人が居着くような場所ではない。雨風だけを凌ごうというのでも、他にいくらでも快適な場所を見つけられるだろう。  こうして日常から切り離された不吉な静寂の中に、ただ独り佇むというのは、いったい何度目の経験だろうか。  地下墓地のように静まりかえった家屋の中へ踏み込み、そこで人知を越えた営みの痕跡を目にするという体験が、すでに耕司の日常の一部になってしまったかのようだ。  これまで踏み込んできた家屋は、無人で、寂れてこそいたが、それでも家としての体裁だけは整っていた。|空蝉《うつせみ》のように生々しくも新しい骸としての家だった。  だが今度は違う。いま夜の森の中に幽鬼のように浮かび上がる壁と柱の構造物は、かつて人の営みがあった場所という痕跡さえも削げ落ちた、完全な廃墟だった。  骸として喩えるのなら、白骨だ。往年の面影など見る影もないほどに風化した、死そのものしかない場所だ。  行き着くところまで行き着いたのだ。きっと、ここが終着だ。  郁紀はどういう挙に出るだろうか。耕司のことを亡き者にしようと企んでいるのは間違いない。だが、どうやって?  マグライトを点灯しようとして、耕司は思い留まった。  手明かりを持ってうろつけば、歴然と位置を知らせて廻ることになる。おそらく待ち伏せを仕掛けているであろう郁紀を、一方的に利することになる。  左手に、すぐ点灯できるようスイッチに指をかけたままのマグライトを掲げ持ち、同じように右手には拳銃を構えた。  ここぞと思った瞬間には照らし出した場所に銃口を向けられるよう、常に銃とライトが同じ方向を向くよう心がけながら、足音を忍ばせて暗い廃墟の中へと踏み込んでいく。  目が慣れるまでしばらくかかったが、がらんどうの窓から差し込んでくる月光だけが頼みだ。あらゆる輪郭が、薄ぼんやりと滲んだ濃淡でしか判らない。  それでも、これで中に潜んでいる郁紀と条件は同じはずだった。  どちらが先に物音を立て、どちらが先に気配を察知するか。そういう気が遠くなるほど隠微で危険な神経戦になる。  廊下の左右に扉を開け放たれたままの、あるいは扉そのものが失せた部屋が並んでいる。それらの一室ごとに、耕司は戸口に身を寄せて気配を探り、無人なのを確かめながら、慎重に先へと進んでいった。  廃墟に入る前から鼻を|苛《さいな》んでいた悪臭が、いつの間にか変質していた。より獣臭に近い、生々しく有機的な汚臭。まぎれもなく、郁紀の自宅に立ちこめていたあの——  ぐじっ  物音に、耕司は総身を硬くして廊下の奥を凝視した。  今の音は——誰かが、泥のぬかるみで脚を滑らしたかのような、湿った音は——ずっと奥の部屋から聞こえた。  何かがいる。物音を立てるような何かが。  足音を殺したまま、耕司は左右の銃とライトをいつでも使えるように身構えて、音のした方角へとにじり寄っていった。  ぐじっ、ぐじっ、と——泥を|捏《こ》ねるような奇妙な異音。近付くにつれてさらに、今度はひゅうひゅうと、獣めいた苦しげな息遣いが聞こえてくる。  郁紀だろうか。いや、有り得ない。奴は今も息を殺して待ち伏せをしている筈だ。こんなにも不用心に物音を立てるわけがない。  進むにつれて、コンクリートと建材の隙間から漏れ聞こえてくるだけだった異音が、いつしか直に耕司の耳に届くようになっていた。 『……ゥ……ゥ……ゥ……』  耕司はとある部屋の前に立っていた。  それまで通り過ぎてきた部屋と同様、ねっとりとした液状の闇に満たされた一室。  だがその部屋の住人は闇だけではなかった。明らかに何かが、いる。  まるで手負いのように、息をするだけでも苦しげな、どこか啜り泣きにも似た——  ——啜り泣き——? 「……誰だ?」  押し殺した秘め声で、耕司は闇の奥に問いかけた。  声を出して居場所を明かすぐらいなら、いっそライトを点けても同じことだったが、なぜか耕司は、そこまで不可逆的な行動を取ることに躊躇があった。  ——啜り泣き——そう、最後に聞いた彼女の声は——電話口の向こうの——啜り泣き——  ぴたりと、まるで息を詰めるように、喘息めいた呼吸音が沈黙する。  そして、 『——コゥジ、グン?』  声ではない、断じて人間の声ではない異音が、冒涜的なほど言葉めいたイントネーションで闇の中に囁く。  イメージが、悪夢の中の妄想でしか成し得ない連想で、耕司に直感と理解をもたらした。 「……津久葉?」  そんなわけがない。  あの津久葉瑶が、こんな声を出すわけがない。こんな匂いを放つわけがない。 『——コゥジ、グン——ォネ、ガィ——コ、ロ、シテ——』  瑶でないとしたら、なぜ耕司の名を知っている? なぜ耕司に向けて訴えかける?  だがそれでも、瑶であるはずはない。瑶は人間だ。いまこの闇の奥にいるモノのように、ズルズルと湿った音を立てて這い回ったりするわけがない。 『——イタ、イノ——クルシ、ィノ——ゴノ、ガラダ、ズッド——ダズゲデ——ゴォジ、グン——』  蠢くそれは耕司の方へと近寄ってきた。  手遅れになる前に、取り返しがつかなくなる前に、左手のライトを点けるべきだと耕司の理性は叱咤していた。さもなければ踵を返して逃げるべきだと。  だが耕司はそのどちらを受け入れることもできずに、ただ闇の中の不定型な輪郭へと、空しく問いかけることしかできなかった。 「津久葉なのか? なぁおい……まさか、津久葉なのか?」 『——ジナゼデ——モゥ——ィャ——ォネガイ——ゴロジデェェ——』  ぬめり粘つく柔らかい質量が、耕司の爪先の上に乗る。  意志とはまったく別系統の反射的な行動で、耕司はライトを点灯し、足元のそれを照らし出していた。  白い光が、総てを暴く呵責ない真実が、最後の一撃となって耕司の理性を破砕した。  恐怖にショートした思考が、『銃』と『引き金』という2単語の間で永久ループに陥り凝結する。  もっとも従順に反応したのは右手人差し指だった。  予想を上回る閃光と轟音。ただ一瞬だけ閃いた圧倒的な破壊力は、だがその一瞬後にはもう再びぬばたまの闇に呑まれて消えている。  そして、銃声の残響に痺れかかった耕司の耳に——ふたたび闇の底から届くか細い声。 『……ィ……タ……ィ……』 「うわぁっ、わああああッ!!」  耕司は悲鳴を上げながら、ただ己の指先にのみ救いがあるかのような錯乱に囚われて、|遮二無二《しゃにむに》、引き金に絡んだ指を屈伸させた。  さらに3回、闇と閃光と沈黙と爆音が交錯して入れ替わる。むろん狙いもへったくれもない。狙わずとも脅威の対象はすぐ足元、外しようのない至近距離である。  銃に残った弾数についての凉子の忠告は、とうに思考の外側へと吹き飛んでいた。  ふたたび重く冷たい闇に総身を包み込まれた後も、耕司は取り憑かれたようにトリガーを引きまくり、とうに空っぽの機械細工でしかなくなった拳銃を、ガチャガチャと空しく作動させ続けていた。  パニックのあまり凍りついていた下肢が、今になって二本脚で直立していることの不自然さを思い出したかのように、もつれて後方へとバランスを崩し、耕司の尻を硬い床に叩きつける。  座り込んだ姿勢のまま、それでも耕司は錯乱の反復で銃の空撃ちを続けていた。そうし続ける以外に彼は、一瞬前にライトが捉えた|もの《・・》を記憶から消し去る方法が思いつかなかった。  とうに左手から取り落としたマグライトは、床に転がってあらぬ方向を照らしている。  4発の弾丸は、たしかに標的を捉えたはずだった。人間なら4回死ぬだけの破壊を、耕司の指はもたらしたのだ。そしてそれは耕司の切り札でもあった。  つまり今、闇の底に独り座り込んでいる自分は、すでにもう丸腰なのだと——そう耕司が理解した、そのとき。  重く冷たい腐肉の塊が、津波のように耕司の上にのしかかってきた。 『イタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイィィィィィッ!!』  もはや悲鳴さえ声にならなかった。耕司は仰向けに床に押し倒され、恐怖に喉を詰まらせたまま、胸から上まで覆い被さってくるモノに必死で抵抗した。 「ひ……ひ……ひぃ……ッ!!」  左手一本で顔を庇い、右手はありもしない救いの道を求めて出鱈目に床をかきむしる。  すでに耕司の思考力は、原始的恐怖だけを残した野生動物のそれと同程度にまで退行していた。  あるいは、だからこそ——いよいよ最後という瞬間に右手が掴んだ硬い感触を、直感で武器と認識できたのかもしれない。  腕にありったけの力を注ぎ込み、耕司は自分の上に乗っているモノを、右手に掴み取った質量で振り払う。  グシャリと水枕を叩くような音をたてて、襲撃者は耕司の上から転がり落ちた。  身体の自由を取り戻すやいなや耕司は膝立ちになり、新たな得物を救いの護符のように両手で掴む。掴んでから初めて、それが錆の浮いた鉄パイプの断片だと気がついた。 『……ィ……ィ……ィ……』  まだ呻く。まだ啜り泣きの声が。 「おああああぁぁッ!!」  悲鳴と怒号のない交ぜになった絶叫を上げながら、耕司は鉄パイプを振り上げ、床に|蹲《うずくま》っているそいつに叩き下ろした。  分厚く柔らかい肉が衝撃を吸う、身の毛もよだつような感触が両腕に伝播し、湿った音が耕司の耳にまで届く。  その音が感触が、耕司の脳裏を生理的嫌悪だけで塗りつぶし、ただ一色の破壊衝動で染め上げる。 「くそおォ! 畜生ォォォ!!」  銃の空撃ちと同じく取り憑かれたような反復で、耕司は鉄パイプを振りかざし、滅多打ちにそいつを叩きのめす。  10回目の打撃で声がやみ、20回目で|蠕動《ぜんどう》が止まり、30回目からは肉を打つ手応えがビシャビシャとより水っぽい音に変質しはじめていた。  耕司がようやく|打擲《ちょうちゃく》の手を止めたのは、彼が打ちのめしていたのが何であれ、すでに生命のない骸に成り果てていると理解してから——そう理解できるだけの思考力が彼の中に戻ってきてからだった。  手の中で、血なのか体液なのか判然としない汚物にまみれた鉄パイプが、ずっしりと重くなる。  戸尾耕司として積み重ねてきた20年間の人生の記憶——それが尊いと、愛おしいと思うなら、こんな場所まで来てしまってはならなかったのだ。  絶望の黒い炎が、耕司の中のすべての感情を焼き尽くし、焼き尽くしてもなお燃えさかり、やり場のない熱量となって沸々と血を滾らせる。  耕司はその熱を怒りとして認識することにした。……そう、いま彼はまぎれもなく怒っていた。憎んでいた。彼に真実という名の毒を盛り、彼の魂の無垢なる部分を根こそぎ|鏖殺《おうさつ》した者を。  そして憎悪の虜となった耕司は、すぐ背後まで忍び寄っている何者かの気配と息遣いを感じ取った。  振り向きざまに、ありったけの殺意を込めて、右手の鉄パイプを横薙ぎに一旋させる。  不意打ちを狙っていた相手は反撃を予期していなかったらしく、たじろいで大きく後ろに跳び退いた。床に落ちたマグライトの光の中で、いびつに歪められた影絵が踊る。  惜しくも空を切った鉄パイプを構えなおして、耕司は第二の襲撃者と対峙した。 「匂坂郁紀……」  これほどの怨嗟の声で、かつての親友の名を呼ばわるとは、耕司自身も思ってもみなかった。 「おいおい、今の一振り……まるっきり手加減抜きかよ?」  この期に及んでなお、郁紀は笑っていた。その手に構えた大振りな斧さえも、何かの冗談だと言わんばかりに。 「参ったなぁ。正直なとこ、お前はもう少し迷うもんだと思ってたんだけど」 「迷う、だと? 俺が? 貴様に?」  耕司もまた、嗤った。嗤わずにはいられないほど郁紀の言い分は滑稽だった。 「貴様、青海をどうした? 津久葉にいったい何をした? それを考えてもまだ俺が、貴様を殺すのに迷うだと?」 「……そいつは言いがかりのつけ方が逆だろ、耕司」  郁紀は声のトーンを落とし、暗鬱とした眼差しで耕司の撲殺した肉塊を見遣る。 「耕司の分際で、僕の瑶を酷い目に遭わせやがって……瑶の10倍は痛めつけてから殺してやる。覚悟しろ」  床のライトの淡い光を受けて、凶々しい照り返しを放つ斧の刃。その殺意の輝きが闇の中に弧を描く。  郁紀が力任せに振り下ろしてきた斧を、耕司は鉄パイプで受け止めた。  手首から肩にかけてを重く硬い衝撃が駆け抜ける。が、体格に恵まれた耕司は姿勢を崩すこともなく斧を押し返す。  二度三度と斧が唸りを上げて、立て続けに耕司を襲う。歴とした道具として設計された郁紀の得物には、耕司がたまたま拾っただけの棒きれよりも数段勝る威力と操作性があった。  耕司は斧の刃から身を守るのに手一杯で、なかなか反撃に移れない。鋭利な斧を受け止めるたび、鉄パイプの表面に浮いた赤錆が削り取られて宙に散る。 「このォッ!」  上段から振り下ろされた斧を受け止めたところで、耕司は相手が斧を引き戻すより先に鉄パイプで押し返し、郁紀の姿勢を後ろに崩す。  郁紀は仰け反りながらもバランスを取ろうと踏みとどまり、そのせいで下肢を動かせなくなった。  その隙を狙って耕司はローキックを繰り出し、郁紀の外腿を強烈に蹴りつける。 「ぐっ!」  呻いて後退しながらも、郁紀は耕司の追い討ちを防ごうと出鱈目に斧を振り回す。  だが戦いのペースを奪還した耕司は深追いせず、泰然と立ったまま郁紀を目だけで威嚇した。 「お前、喧嘩に慣れてねぇな?」 「うおぉッ!」  怒声とともに反撃に出る郁紀。だが耕司に蹴られた右足に痺れがきたらしく、斧のスピードは鈍っている。  耕司は落ち着いて斧を鉄パイプで打ち返しながら、郁紀の疲弊を待った。 「死ねッ! 死ねぇッ!!」  裏返った雄叫びとともに重い刃を振りかざす郁紀。だが勝負はすでに勢いよりも冷静さが勝機を掴む段に入っている。  郁紀が何度目かに大きく振りかぶったところで、耕司はその動きが充分に衰えているのを見計らい、一気に踏み込んで左腕を伸ばし、斧の柄を掴んで止めた。 「ッ!?」  怯んだ郁紀の、がら空きになった脇を狙いすまして、耕司は右手の鉄パイプを叩き込む。  メキリ、と肋の折れる手応え。 「がふッ……」  たまらず|蹲《うずくま》る郁紀。その無防備な後頭部を見下ろしながら、耕司は自分でも驚くほど醒めた心境で、とどめの一撃を振り下ろすべく鉄パイプを高々と掲げ持つ。  左足首に何かが巻きついたのは、そのときだった。 「な……!?」  予期せぬ感触にうろたえた瞬間、柔らかくも強靭なそれは右足にも絡みつき、耕司は抵抗する暇もなく床へと引きずり倒された。  身を|捩《よじ》り、背後の見えざる敵に鉄パイプを振り下ろそうとする耕司だが、その右手もまた軟体の圧力に絡め取られた。  ズボンの生地越しには判らなかった冷たい粘膜の感触を剥き出しの手首に感じて、耕司は総毛立つ。  さっきの化け物が、まだ…… 「……いいぞ……沙耶」  |蹲《うずくま》ったままの郁紀が、痛みに眉を寄せながらも、勝利を確信した残虐な笑みを浮かべて声援を送る。  沙耶——  こいつが——  耕司は死に物狂いでのたうち回り、四肢に絡まる不気味なものを振り解こうとした。  だがその軟体の緊縛は次から次へと数を増し、まるで群体の蛇のように耕司の自由を奪っていく。 「う——わ——うわぁぁぁッ!?」  もはや耕司は半狂乱だった。自分を引きずり倒した生物がどういう容姿をしているのか、想像しただけで正気ではいられなくなった。  絶叫する耕司の喉が、粘液の圧迫に屈して沈黙する。首に巻きついたもっとも致命的な緊縛が、呼吸や血流のみならず頸椎ごと耕司を断絶しようと、じわじわと圧力を増していく……  沙耶がついに仕留めた獲物を捕食する様を、僕は傷みに茫洋と霞む意識の中で眺めていた。  勝った。辛くも——僕独りの力ではなかったが、僕らははじめて協力して敵を撃退した。  むろん代価は高くついた。肋骨は間違いなく2本以上やられてる。一呼吸するたびに突き刺さるような激痛が胸を襲う。  それに、瑶——ああも他愛なく耕司の手にかかるとは思わなかった。沙耶と違って彼女は、新しい身体を使って戦う術に疎かったのかもしれない。  おそらくは僕を傷つけたことに対する怒りもあったのだろう。沙耶の殺戮は容赦なく徹底していた。獲物が動きを止めると同時に急所へとかぶりついて、容赦なくその生命の残滓を咀嚼し、略奪していく。  沙耶の可憐な容姿には似つかわしくない、|血腥《ちなまぐさ》く残虐な行為ではあったが、血に染まる彼女の頬は、まるで勝利者として君臨する肉食動物の王に似て、その荒々しさにはどこか気高く崇高なものを窺わせる、侵しがたい神聖さがあった。  どのくらいの時間、そうやって野生の沙耶を見守っていたのか分からない。痛みのあまり何度か意識が遠退いたこともある。正直なところ、僕は暴力沙汰というのには慣れていない。  とうぜん事故にあった時の怪我はもっと酷かったんだろうが、相手から故意に与えられた痛みを受け止めるという体験は、今回の骨折がいちばんの重傷だ。  それにしても沙耶ときたら、もう少し気を利かせてくれても良さそうなもんだが。相手はもう間違いなく死んでるし、慌てる必要なんて何もないのに。  ふと見れば彼女は、もう満腹になったのか、床に仰向けになってゴロゴロと転がりながら身体を揺らしている。  食べ過ぎたんだろうか。冷凍じゃない新鮮な肉は数日ぶりだし、がっつきたくなる気持ちも分からなくはないが、それにしたって僕が怪我してるのは判ってるだろうに。もう少し構ってくれたって——  そんな手前勝手なことをつらつらと考えていたせいで、僕は様子がおかしいことに気付くのが遅れた。  沙耶は、ただ寝転がっているわけじゃない。悶えている——苦しみに。  総身から血が退いた。肋骨の痛みなど完全に意識から消し飛んだ。 「沙耶——ッ!?」  跳び起き、駆け寄って、床に倒れている沙耶を抱き起こす。  血の気の引いた彼女の顔はびっしょりと汗に濡れ、まるで熱病にうかされるかのように、浅く閉じた瞼と唇を震わせている。  何があった?  僕にはまるで見当もつかなかった。戦いの途中で、僕の気付かない隙に致命的な一撃を受けたんだろうか? それともいま喰らっていた肉に毒でもあったんだろうか?  判らない。まるで判らない……ただ恐怖だけが|嵩《かさ》を増していく。 「沙耶っ、沙耶ぁっ!」  手の施しようもなく、ただ僕は声の限りに名を呼ばわるしか術がなかった。  沙耶がゆっくり目を開く。ぼんやりと夢見るような眼差しで、怯えきった僕の顔を見返す。 「郁紀……ごめん。大丈夫……大丈夫だよ。ただちょっと……痛いだけ……」 「な——何なんだ? どうしたんだ!? 沙耶ッ、しっかりしろ!」  大丈夫なわけがない。沙耶がいま危険な状態にあるのは目に見えて明らかだった。  にもかかわらず、狼狽しているのは僕の方だけで、沙耶自身はまるですべて承知しているかのように安らかな表情で、僕を慰めようとしてか、優しい微笑さえ浮かべている。 「……びっくりしちゃった。まさか本当に……こんなに早く、時が……来るなんて……」  沙耶を失う——想像さえもしたくない最悪の可能性。僕は自分がまるで何もできない赤子に逆行したかのような不安と絶望に押しつぶされそうになる。 「怖がらないで……昼間、言ったよね。これが……|徴《しるし》。郁紀と、わたしの……たったひとつの、希望……」 「——どういうことだよ? わけわかんないよ! 沙耶、しっかりしてくれよォ!」  泣きじゃくる僕に沙耶が笑いかける。子供をあやす母親の笑顔だった。 「沙耶はね……頑張るって決めたの。だって、郁紀は……沙耶のこと、可愛いって……綺麗だって……そう言って、くれたから……」 「——やめようよ、沙耶」  何が起ころうとしているのか分からない。  分からないが、それがこんなにも沙耶の身体を|苛《さいな》むことだというのなら、見過ごせるわけがない。 「もういい! 無茶しないでくれ! 何をするつもりか知らないが、沙耶が苦しむ姿なんて見たくない……」 「……ひどいなぁ、郁紀……解ってよ……」  呆れたように苦笑いしてから、沙耶は、囁き声で秘め事を打ち明けた。 「産まれるんだよ……沙耶と、郁紀の、子供たちが……」  僕の頭の中は、しばらく真空の空白になった。 「そんな——いつの間に?」 「……わたしもね、びっくり……ねぇ、郁紀」  その細い身体で今どんな苦痛を受け止めているのか、沙耶は息も絶え絶えに、それでも両腕を差し伸べて僕の首根にしがみつく。 「外に、連れてって……広いところ、空の……下に……」  僕は頷いた。頷くしか他になかった。溢れ出そうになる涙をこらえるために、声を出す余裕はなかった。いま勇気を振り絞って痛みに立ち向かっている沙耶に、涙なんて見せられるわけがない。  僕の腕の中で、いつになく沙耶の身体は熱かった。ときどき背筋から四肢へと駆け抜ける痙攣は、痛ましいほどに激しく、ともすれば彼女の脆い身体をバラバラに壊してしまいそうなほどだった。  祈るような想いで彼女の身体をかき抱いたまま、小走りに廃墟の外まで出る。  冷たい夜気はほんの少しだけでも沙耶の熱を冷ましてくれるかもしれない——そんな虚しい望みも、ますます短く切迫した呼吸で、血色のない唇を喘がせている沙耶の有様に、一歩の慈悲もなく消し飛んだ。 「沙耶——外だよ」  呼びかけると、ふたたび彼女は瞼を上げる。  焦点もなく曇った眼差し。その目にもう何も映っていないのは明らかだった。  それでも沙耶は僕を見ていた。僕の顔のあるあたりに、僕の表情を想い描いているのが分かった。 「約束した……これが……最後の、プレゼント」 「うん」 「……喜んで、くれると、いいな……」 「嬉しいよ。もちろん」  僕は精一杯の意志の力で、明るく弾んだ声を出した。  沙耶はきっと、笑顔を思い浮かべてくれたと重う。僕の泣き濡れて滅茶苦茶になった顔は見られずに済んだと思う。 「郁紀……わたしを愛してくれた、あなたに……この|惑星《ほし》を、あげます……」  沙耶の囁きは苦痛に枯れて、力無く、だがそれでもなお恍惚と酔いしれるような響きがあった。——喜びに。  もぞり、と、沙耶の背中が蠢いた。そして膨らんだ。 「この世界は、きっと……きれいな、場所に……なるから。沙耶と……郁紀の……ためだけの、世界に……」  謳うようにそう呟いて、それから、彼女は咲いた。——そうとしか僕には形容できなかった。  沙耶の背中から、まるで羽化した蝶の翼のように、大きく伸びやかに拡げられた無数の……花弁。  それらを彩るまばゆい輝きの正体は……花びらの一枚一枚の表面をびっしりと覆う、光の粒子のような鱗粉だった。 「……さよなら、なのか?」  涙を悟られないよう感情を隠して、僕は短く沙耶に問うた。 「——ううん、違う。これは——始まり——」  苦しみは、すでに越えたらしい。沙耶の表情は今どこまでも安らかに満ち足りていた。 「わたしと——郁紀の——世界の、始まり——」  風に乗って、光の粒が運び去られていく。輝きの流れになって、冬の夜空へと舞い上がり、凍てついた夜を染めていく。  美しかった。圧倒的に、絶望的なほどに美しかった。  新しい世界の幕開けの、古い世界の滅びの唄。  輝く生命はいま自由を謳歌し、勝ち|鬨《どき》の声を上げて、この広く肥沃な大地へと解き放たれていく。  かくも広遠なる癒し——  かくも悠久なる至福——  僕らは、僕らの歓喜でこの世界を染め上げる。 「……これからは、ずっと一緒だね」  哀しいほどに軽く小さくなった沙耶の躯を抱きしめたまま、僕は空を彩る輝きに魅入られて、ただ|澎湃《ほうはい》と泣き続けた。  ありがとう。  最後の贈り物を、ありがとう。沙耶。  地下の倉庫に放置されていた保存食だけで、はたして何日食いつなげるものか危ぶんだ時期もあったが、それもどうやら杞憂に終わりそうだった。  むしろ先に酒の方が尽きてしまいそうなのが手痛い誤算だった。  舐めるように賞味してきたスピリタスだったから、フラスクの中身はもう少し保つものと思っていたのだが——どうやら予想以上に日々の摂取量が過ぎていたらしい。  無理もなかった。今から顧みてもなお、蒸留アルコールの酩酊なくしては乗り切れない日々だったと思う。  希望だの、絶望だの、そういう考えるだけ詮無い諸々の一切を頭から追い出した後は、凉子の人生においてもかつてないほど静かに安らいだ日々が訪れた。  諦観とともに憎しみや恐怖も消えた。今となっては奥涯雅彦の所行にも、ただ感嘆と、その知的探求心に対する畏敬の念しかない。  どのみち彼を否定するだけの理由は、凉子にも、この世界にも残されていないのだから。  山中の別荘に孤立していた凉子は、独り過ごす時間の慰みに、奥涯の残した研究資料の整理を引き継ぐことにした。  暗号めいた形で放置されていた手記を、一貫して読める形に書き直し、重複を削除し、索引性を高めて編集していく。  むろん誰に読ませるためでもない。己の行為の無意味さは他ならぬ凉子自身がよく|弁《わきま》えていた。  だが生存する理由さえ見失った今、知性を動員して没頭できる作業があるというのはささやかな救済になるという、ただそれだけの意味しかない行為だった。  そして今、スピリタスの最後の数滴を祝杯として喉を灼いている凉子の眼前には、一冊に纏められた奥涯の探求の一部始終が置かれている。ついさっき最終章の筆写と訳注の整理が終わったところだ。  空しい達成感に酔ったまま、凉子は手慰みに原稿を取り上げ、書き上げたばかりの頁を|捲《めく》る。 『最後に、現段階での私の仮説をまとめて結びとする。私が沙耶と名付けた、あの生物——彼女が我々の宇宙へと現れた理由は、偶然ではなく、はたまた私の召喚によるものでもなく、彼女に生物としてプログラミングされた本能の結果であろう。 その意図するところとは、あらゆる生物の究極の目的意識——繁殖、である。 彼女とその眷属は、異次元の壁を越えて種を撒き散らす生物なのだ』 『彼女たちが異世界への扉を見つけだす可能性は如何ほどだろうか。首尾良く異界への旅を成し遂げたとして、辿り着いた世界が生命の繁殖に適した環境である可能性は、さらにどれほど稀少だろうか。 そんな僅かな可能性を最大限の効率で活かすために、彼女たちの進化が選択した手段。それが沙耶の肉体に備わった驚異的な資質であろう。 即ち——巡り会った中でもっとも繁栄している種族を選別して侵蝕し、当地の生態系における支配的地位もろともに略奪する。言うなれば種族の“乗っ取り”である。 彼女たちは環境を制した遺伝子に干渉し、自らの眷属となるべく“書き換え”を行うのだ。それを可能とするだけの生態的機能を、沙耶は備え持っていた』 『標的となる種族はその進化の過程において、かなりの確率で知性を発現させていることだろう。それは当地の環境を支配する上で鍵となる要素であるかもしれない。 それ故に、沙耶たちの略奪は文化と精神にも及ぶ。あの驚異的なまでの学習能力と知的好奇心は、標的とする種族の培ってきた知的財産をそっくりそのまま継承するための本能であり能力だろう』 『あるいは沙耶たちの標的は、初めから知的種族に照準を絞ったものなのかもしれない。 彼女たちが独力で運任せの次元旅行を試みるよりも、異界で異界の知識を身につけ、外宇宙への探求に乗り出した愚かな種族との接触を、虎視眈々と待ち受けていたほうが、より的確に略奪しがいのある異世界へと侵出する機会を持てるのではないか。 そう、たとえば銀の鍵を得た私のように、自らが探索者を気取って彼女たちを“発見”したものと有頂天になるような軽率な知性体が、他世界にもどれだけいたことか』  久々に、外に出てみるのもいい——そう気まぐれに思い立った凉子は、読み直していた原稿を小脇に抱え、別荘の前庭に停めてある自動車に乗った。  どのみち、最後の仕事と思い定めた作業も完了してしまった。もうこの山荘に閉じこもっていたところで、他にやることがあるわけでもない。  車で少し山道を上ったところに、見晴らしのいい拓けた場所がある。  変異が始まった当初、凉子はよくそこまで足を運び、変わりゆく眼下の街を為す術もなく見守っていたものだ。 『私のこの仮説の綻びとしては、他ならぬ沙耶自身の行動に疑問が残る。 私を介して人類の情報を収集しつくした沙耶は、いよいよ最終的な侵略に乗り出すだけの準備が、すでに整っていたはずなのだ。にもかかわらず、最後まで彼女は行動に移らなかった。何故か?』 『察するに——沙耶という個体は、彼女たちの種族の中でもイレギュラーな存在だったのではないか。 人類は知性によって本能を破綻させた種族だという。そんな種としての病巣を、沙耶もまた継承してしまったのではないか。 人類の精神性を吸収するにあたり、我々の本能と矛盾する論法の数々は、沙耶の繁殖本能までも破壊してしまったのかもしれない』 『はたして我々の恋愛感情とは何なのだろうか? 効率的な種の繁栄を遂げるのに、これほど妨げとなるような精神活動があるだろうか?  学習の末期において、沙耶が古今東西のラブロマンスを貪るように読破していた姿を思い出す。  彼女は人類の繁殖方法の一過程として恋愛を理解しようとした。その結果、自らの類い希なる繁殖能力を去勢する結果に終わったのかもしれない。つまり彼女は——恋をしなかったのだ』 『ヒトに代わってこの地球を支配するべく現出し、そのためにヒトについての理解を深めておきながら、ついに彼女はヒトに恋をすることができなかった。愛という名の祝福を得られなかったこの世界に、沙耶は自らの眷属を産み増やすだけの熱意を持てなかった。 ヒトを学び尽くした沙耶は、それほどまでに人間的になってしまったのだろう。孤独に疲弊し、世界に絶望するほどに、彼女は乙女になってしまったのだろう。 だとすればこれは、教育者としての私の不徳の致すところである。あれほどに驚異的な生物の資質をスポイルしてしまったことには|慚愧《ざんき》の念を禁じ得ない』  沙耶——今の凉子はその存在に関する知識において、奥涯雅彦に次ぐ第二位の理解者のはずだ。  いや、もう一人、匂坂郁紀という青年を交えて順位を競えば、あるいは第三位に落ちるのかもしれない。  結局、ついに実物と対面することはなかった。今となっては一度ぐらい会ってみたかったものだと思う。  沙耶の行動原理に関する奥涯の分析が正しいのなら、彼女をして世界を侵略せしめた心情の変化は、きっと匂坂によってもたらされたものだろう。  もし彼の主治医だった自分が、あの孤独な青年と沙耶とを結びつける手助けをしたのだとしたら——彼らの世紀の結婚に参列するぐらいの資格はあったのではなかろうか。  もし凉子が男だったなら、仲人だって務まったかもしれない。 『私は夢想する——いつの日か、我が娘の頭上に愛という名の祝福がもたらされる未来を。 恋のときめきが彼女の胸を焼き焦がし、彼女を巡る世界が、ふたたび輝きと喜びと取り戻す日を』 『そのときこそ、沙耶よ。君はその忌まわしくも圧倒的な繁栄の意図で我々を貪り尽くすのだろう。世界は君の愛に満たされ、ふたたび生まれ変わるのだろう。 ああ、なんと目眩く未来だろうか』 『やがて訪れるであろうその日を見届けられないままに、こうして命を絶つことは無念に過ぎる。だが私の夢を暴かんとする断罪者の足音は、刻一刻と迫っている。 私が死を以て口を噤めば、沙耶にまで究明の手が伸びることはないだろう』 『この孤独な世界にお前だけを取り残すことを、沙耶よ、どうか許してほしい。 お前はすでに身につけたその知識によって、独力で道を拓いていけるものと信じている。そしてお前の勝ち取った魂の輝きが、つねに行く手を照らしてくれるだろう。怖じず、疑わずに進むがいい。いつか答に辿り着く、その日まで。 そして沙耶よ、お前のもたらす未来を、私は夢想してやまない——』  孤立した環境のせいか、山地の気候のせいか、それとも変異に対する抵抗力に個体差でもあるのか……いずれにせよ凉子はまだ、あの街に蠢くモノたちほど人の形を離れてはいない。  現在、果たしてこの世界に人間と呼べる存在がどれだけ残っているか分からないが、凉子は人類社会の終焉を見届ける羽目になった、そんな一握りの生存者たちの一員だった。  むろん、変異は時間の問題だった。  もはや人間の手として機能しなくなった右手首を切り落としたのは三日前のことだが、今度は肩から背中にかけての|掻痒《そうよう》感が耐え難くなってきている。  どんな有様になっているのか、鏡を使えば観察することもできるだろうが、そんなことをして幸福な気分になれるとも思えない。  こうして世界を見渡しながら、眠ってしまうのもいいかもしれない——そう凉子は思い立つ。  次に目が覚めるときには、山を下り、あの街の賑わいに身を投じる決心がついているかもしれない。そんな決心さえ必要なくなっているかもしれない。  いずれにせよ——  フラスクから蒸留ウォッカの最後の一滴を舐め取り、うつらうつらと微睡みながら、凉子は思う。  人であることを辞めたあとも、酒の味が判る身体でいられるといいんだが。